第十章 「オデメタおでめと」
結婚後、最初の誕生日をいきなり忘れられました。
TACです。
――最初の兆候があったのは、その年の6月くらいだったか。
ヨメが「なんか・・・あんまり食欲ない・・・」と言って、食事が進まない日が続いた。
食べる事こそが生きる目的と言ってもいいヨメが食欲ないなんて、気持ち悪いほど異様な事態である。
しかし・・・
TAC
「夏バテだろ」
ヨメ
「そだね。夏バテよね」
二人とも勝手にナットク。時期的には初夏と呼ぶにも早かったが、純正道産子のヨメにとって
は十分暑い日が続いていた。
だから原因についてあまり深く考えてはいなかった。
――その後も体調の改善は見られず、「なんだか熱っぽい」とまで言うようになる。
いくら揃って鈍感な夫婦でも、この辺りから「ひょっとして、アレか?」と思い始めるものだろう。一応新婚だし、心当たりが全く無いわけではない。
しかし・・・
TAC
「夏風邪ぢゃね?」
ヨメ
「そだね。夏風邪だわ」
二人とも華麗にスルー。まるで”その可能性”を認めたくないかのごとく、何故か話題を避けるようにしていた。
そんな日がしばらく続いた。
そしてある日ふと立ち寄ったドラッグストアにて――
TAC
「風邪薬、買って行くか?」
ヨメ
「そーだねぇ・・・」
TAC
「でもな、もしも・・・。もしもだぞ?ニンシンだった場合、薬はマズいよな?」
ヨメ
「・・・そーかも」
TAC
「とりあえず先に買うべきは・・・こっち(妊娠検査薬)だな。まあ違うとは思うけど、念の為にやっとこう」
ヨメ
「そうね、きっと違うだろうケドね」
一応断っておくと、我らは決して子供を望んでないワケではない。
TACもヨメも自他共に認める子供好きだし、ましてそれが二人の間に授かったものならこれ以上の喜びはない。
ただ、何と言うか・・・「てっきりそうだと思ってたらやっぱり違った」と知る事を恐れていたのかもしれない。
実はTAC、――別に根拠があるわけでもないのに、なんとなく自分には子供ができないと学生時代から思い込んでいた節があるのだ。
だから「子供は何人くらいの予定?」とか聞かれた時にも、「まあこーゆーのは授かりモノですんで。出来なかったら出来なかったで別に気にしませんよ」と答えていた。何のことはない、ホントに出来なかった時の為にただ防衛線を張っていたに過ぎない。
その俺に――子供が?まぢで?
とりあえず検査してみるくらいはイイだろう。しかし確定するまでぬか喜びしないように心がけていた。
帰宅して、検査薬の説明書を読んでみる。
実は知らなかったが、生理予定日の一週間後からでないと使えないらしい。
ヨメ
「予定日から一週間だと・・・まだちょっと届かないねぇ」
やるとしたら来週であろう。それまではお預けということで、その日は検査薬をそのまま箱に仕舞って寝た。
――そしてそれは、そのまま二度と出番が来る事はなかった。
翌日、体調が優れないヨメを心配した母が病院に連れて行き、「念の為に調べてもらいなさい」と産婦人科に寄ったのである。
そこで、やけにアッサリと結果が出た。
ヨメからのメール
『赤ちゃん出来てたよ』
世界が変わった。
当然両親はお祭り騒ぎである。
まだ先のことはわからんので安定期に入るまでは誰にも言わないつもりでいたのに、翌日中には一族の末端にまで情報は行き渡っていた。親父おちつけ。
孫は既にミキ・マユ・ミサトの3人がいるが、全て嫁いだ妹たちの子なので内孫は今回のTACの子が初めてということになる。
そりゃ嬉しいのはわかるがオフクロもおちつけ。
ちなみにTACはこの時点でまだ神様を信用してなかった。
妹たちを含め、TACの周囲では何事もなくスムーズに生まれた例が少ない。流産率は実に5割を超えている。
まだまだ油断は出来ない。御子はまだカタチにもなっていない卵の状態なのだ。「生まれるまではカンタンには喜ぶもんか」と意固地になっていた。
ついでに、ヨメに「ホントに俺の子?」と聞いて殴られそうになった。
いろいろ考えなければならない事が出てくる。
まず、予定日は来年の2月。
そしてヨメは自然分娩を希望した。いわゆる自宅出産である。
産婆さんが「誰か早くタライにお湯を用意して!アナタはこの家のありったけのタオル持ってくる!男子は早く部屋から出てーーーっ!」のアレである。まぢかよ。
小樽「とまや」のサリーさんが自宅で産んだらしく、その時に世話になった助産婦さんを紹介してくれるという。
一応こちらの病院で定期検診だけは受け、盆の里帰りの時に助産婦さん本人と会ってきた。
助産婦のムラカミ先生からは、多くの課題がヨメに与えられた。
まず、肉・玉子・砂糖・油・乳製品あたりは全面的に摂取禁止。もちろん太るのは厳禁。
悪阻が終わったら家事全般はキチンとこなす事。そして1日12km歩きなさい。(マジ)
大好物がことごとく食べられなくなり、大嫌いな運動を強要されるわけである。
・・・だいたい12kmのウォーキングなんて、健康でノーマルな状態でもかなりキツいんじゃねぇか?。自然分娩て厳しいなぁ。
曰く、「母親の方のコンディションが完璧でなければ責任は持てない」そうである。
自宅で出産の場合、当然”イザという時”の迅速な対応はできない。設備が揃っている病院で産むのに比べ、緊急事態に陥ったら手遅れになる可能性が大きい。
そうならない為にも、母親はベストの状態で出産に臨まなければならない。ようするに覚悟が要るのである
実際、この間のヨメの努力はホント涙ぐましいものがあった。
買い物で美味しそうなケーキやアイスクリームを見つけるとつい立ち止まり、涙目で見つめている。手を引っ張って引き離さないとその場から動こうとしない。
休日に二人で出掛けた時などにチョットだけ禁を犯す事もあったが、基本的に普段は完全シャットアウトだった。ヨメにとっては悪阻よりよっぽど苦行だったに違いない。
そしてよく歩いた。
時々ウチの工場の電話番に来てもらったのだが、自宅→市立図書館(そこで鬼のよーに本を借りる)→工場(電話番しながら鬼読書)→買い物など→自宅の約8kmをデカいリュック背負ってほぼ毎日歩くのである。
あまり意思が強いとはいえないヨメがこんなに頑張るとは、正直思っていなかった。
せめてもの救いとして、悪阻はあまりヒドイ方ではなかったようだ。
食欲は確かに落ちていたので、皮肉にも出会ってから今までで一番ヤセて綺麗なヨメを見ることが出来たりしたが、家事を全放棄するほど寝込む事も無く――むしろ東京や礼文島に一人で遊びに行く余裕すらあった。
それでも一応、TACも洗い物くらいは手伝った。
【名前を決めよう!】
さて、命名である。
らぶりぃで、びゅーちふるな名前を付けてやらねばなるまい。
なんたってその子は一生この名前で呼ばれる事になるのである。うっかり「プリプリ仮面」なんてハンドルネームを付けてしまったがためにオフ会の待ち合わせ場所で大声で名前呼ばれて衆目に晒された某友人のような目にあわせるわけにはいかない。(どんな例えや)
御子はまだ性別不明である。つか、ヨメは生まれるまであえて知ろうとは思わない様子。まあソレもよかろう。
・・・つまり、男女両バージョンでそれぞれ名前を考える必要がある。
どんな意味を込めようとか特に考えてはいなかったが、方向性は決めていた。ズバリ、TACと同じ画数にしようという点である。
実はTACの本名を姓名判断してみると、ビックリするくらい良い結果が出る。新字体・旧字体ともに、ほぼ全ての項目で満点。稀に見る最強でパーフェクツな名前なのであるエッヘン。
・・・それで実物はそんなんかいとか言うの禁止。
つまりだ。TACの本名と同じ画数で命名すれば、姓は同じなわけだから総画数も同じになる。姓名判断の結果も同じになる。
最強でパーフェクツな名前になるというわけだ。
TACの本名の画数は「8:3」である。
MSIMEを使って8画と3画の漢字を検索し、めぼしいやつを打ち出してみる。
【8画】
並乳爭亞些享京侑佳価侐p使侍q侭侟侘侗侫侮併舎免其具典刳刮券函刻刷刹刺到劾劼効協匣医卒卓咏呭受取参呵咎呴呟呼咕呷呪周咀呻咆味命和固国囹坦夜奇奈奉奔委姁姑妻姉始妮姒姐妾姓妬・妹学季孟官実宙定宝尚届居屈岳岩岸岡岬帖帑帛幸延店底弦弩彼征彾忢忽忠念怏怪怇怯怳怩性怖怜拐拒拝抱拎河泄泣泂沽沱泥波泡沸泌油泪狐狗狙狛英茄苛苦苔若苺苗茂邪阜阿阻陀斧房易昆昏昇育明昔昌肩股肴肢朋肥冐果杵松杯杮東板枇杪枡枠林枖欧欣武炎毒毟殀Q炕炙炊炒玪祈祇祉祀者的盂直知盲空突表虱雨軋長金門青非斉
【3画】
下三丈上万丸之久也亡凡刃口叉千囗土士大女子寸小山川工已己巳巾干弓才
・・・3画はともかく、8画には割と香ばしい漢字が目立つ。
とりあえず最低限守りたかったのは、誰にでも読める日本的な名前を、ということだった。
TACは、最近流行ってる外国かぶれで無茶な当て字を使った一発では読めない名前が大嫌いなのだ。「太郎」とか「花子」などの方が全然アリなのだ。
TAC
「オトコだったら乳丸(ちちまる)。女だったら毒子(ぶすこ)なんてどうだ?」
ヨメ
「 マ ジ メ に や れ 」
TAC
「夜叉(やしゃ)とかカッコイイと思うけどな」
ヨメ
「ふざけんな」
TAC
「おぉっ!すげぇ!茄子(なす)ってのもウケるんじゃね?」
ヨメ
「ブッ殺されてぇかキサマ」
――とりあえず、男女とも3つくらいづつ候補を絞り込んでみた。
安定期に入り、下腹も少しづつ目立つようになってきた。
悪阻も終わり、食欲も回復。「御子のため」という大義名分の元、食いまくる。あぁ、体重まで戻ンなくてもいいのに・・・(泣)
相変わらず肉系は食べられないので、代わりによく摂取されるのは穀物系。主食はサツマイモである。
そう、よりによってサツマイモ。
安全装置が壊れてる銃に、弾丸を常時満装填して欲しくないんだけど
。
(判り易く言うと、屁の原料をわざわざチャージすんなって意味です)
検診の度に子宮内のエコー写真を貰ってくる。
最初はどこに何があるのかサッパリわからん写真だったが、人のカタチになり徐々に大きくなってくるにつれ・・・やはりどこに何があるのかサッパリわからん。
どうもウチのガキは落ち着きがないらしく、撮影の時に限ってあさっての方向を向いてたり顔の前に両手かざしてファイティングポーズとってたり、まともに写ってるのが一つもない。生まれる前から既に写真写りが悪いようだ。
まあ、特に問題なく育ってるようで安心。
事象の全ては母体の内部で展開する。父親の立場としてはイマイチ実感が沸かないもんだが、ドラマの中でしか観た事がなかった「・・・あ・・・、今赤ちゃん動いた」なシーンが実際目の前で起こり始めると流石に「うわぁホントに子供が生まれるんだ」と実感せざるを得ない。
ヨメ
「お風呂入ってる時とか、肩揉んでもらってる時よく動くね。一緒に気持ちイイのかしら」
TAC
「内側から蹴られると、やっぱ痛いの?」
ヨメ
「痛いというよりキモチ悪い」
TAC
「これがホントの子宮内暴力ってか」
ヨメ
「膀胱圧迫されるからトイレ近くなったり、腸を蹴られるとオナラも出ちゃうし」
安全装置壊れてる銃は、さらに暴発癖までついてしまった模様。
(カンベンしてくれ...orz)
さて、そんな妊婦街道驀進中なある日――、ヨメが唐突に「新婚旅行に行きたい」とほざいた。
【半年遅れのハネムーン〜タカヤマ・トヤマ・ヨモヤマ話】
3月21日に北海道へ渡り、25日に札幌で挙式。その後も28日まで滞在し、小樽から丸一日かけてフェリーで帰投。
――つまり実質10日は会社を休んでいたので、すっかり新婚旅行にも行ったつもりになっていたTAC。考えてみればまだだった。
子供が生まれてしまえば、しばらくは無理だろう。となると、悪阻も終わって安定期に入った今が確かに最後のチャンスかもしれない。
TACは、実はまだ海外旅行に行ったことがない。
男は「新婚旅行が海外デビュー」という人も結構いるし、TACも「海外行くとしたら新婚旅行が最初で最後だろな・・・」と漠然と考えていた。ここまで海外童貞を守ったからには、何歳まで行かずに過ごせるか挑戦してみたい気持ちもある。(つまり、あまり海外に興味ナシ)
仕事の都合上――さすがに結婚してから半年過ぎた今さら、まとまった休みは取れない。海外に行く口実としては最大の大義名分である新婚旅行にすら、TACは見捨てられたようである。
となると、せめて二泊三日くらいで国内旅行を・・・という話になる。ヨメさんも身重なわけだし、そのへんが妥当だろう。
TAC
「どこ行きたい?」
ヨメ
「沖縄とかイイねぇ」
TAC
「もうそろそろ秋も終わりというこの時期にかよ?それに、あそこは海外みたいなもんだから却下」
ヨメ
「じゃあ、ネット友達がいる所にする?水木ロードの鳥取とか、広島とか京都とか富山とか」
TAC
「その中で、二人で一緒に行った事がない場所って富山だけだよな?」
ヨメ
「・・・富山にする?」
TAC
「・・・そうするか」
富山の松さんに連絡したら、観光案内&宿の提供を買って出てくれた。ありがたや。
この時期の富山は寒鰤が旨いらしいのでタイミングとしてはまずまずだ。
我が社は毎月第4週のみ、土日休み。その前後に一日づつ休みを貰い、11月23日(金)〜26日(月)までの三泊四日を旅行に当てることにした。
富山に行く前に、高山に寄って一泊するつもり。
・・・日本どころか、本州どころか、中部地方すら脱出しない新婚旅行。
(だって行き先はお隣の県)
今振り返ってみると、この旅行――カメラ持参だったにもかかわらず殆んど写真撮ってねぇ。新婚旅行なのに。
一応携帯で撮った何枚かも・・・その殆んどが食ったモノ(しかも食後の残骸)の写真ばかり。新婚旅行なのに。
将来、子供に「新婚旅行の写真見せて」と言われたらどーしよう。
まあ、よーするに食ってばかりの旅行だったわけである。
この旅行の間はヨメも特別にお肉と甘いもの解禁★だったので、野に放たれた獣のごとく食いまくっていた。
だから一日目の高山に関してはサクサクと行きます。
【2007年11月23日(金)】
朝八時。
妊婦なのにガッチリ着物でキメてやる気満々のヨメと、まだ半分寝ているTAC、アパートの最寄り駅まで歩いて行き、長良川鉄道に揺られて美濃大田まで。
そっから特急に乗り換えて一路高山へ。昼前には着く。
着いていきなり駅前で五平餅を喰らう。
「昼食前の軽い食事」が終わったので、次は昼食だ。高山ラーメンと飛騨牛の牛串と炙り寿司を喰らう。
道路舗装工事中につき始終「ドガガガガガガガガガガ」な騒音でうるさい宿泊ホテル(というより旅館)に荷物を預け、「昼食後の軽い食事」を食いに町へ繰り出す。
海苔巻きみたらしを喰らう。
次は「三時のおやつ」だ。
でもその前に「おやつ前の軽い食事」としてかぼちゃ饅頭を喰らう。
おやつは飛騨牛握り。霜降り飛騨牛をネタに握った寿司。エビせんべいの皿の上に乗っている。ンまい。
おやつの後は「おやつ後の軽い食事」が待っている。
子鯛焼きとマンゴーソフトを喰らう。
ホントに食ってばっか。
・・・いや、ちゃんと観光もしましたよ。え〜と、古い町並みとか。(←実にいいかげん)
一番印象深かったのは、どっかの土産屋さんで陳列棚として使われていたエイリアンテーブル。(だから観光しろよ)
車の部品などを溶接して作られている。メチャ欲しい。
日も暮れてきたので喫茶店で一服。
「夕食前の軽い食事」として抹茶とヨモギ饅頭を喰らう。
旅館に帰投後、夕食を喰らう。
美味しかったが、「わざわざ高山で食わんでも」なメニウだったよーな気がする。
・・・ヨメは高山散策中、ふとドラッグストアに寄って何を思ったかサランラップを購入していた。
確かに安かったが「わざわざ新婚旅行で買わんでも」な気もする。
夕食時、ちゃっかりそのサランラップを持参。
お櫃の中に残った御飯を包んで、おにぎりを作り始めた。
「夕食後の軽い食事」の準備も万端だ。
でもやっぱり食い過ぎだと思う(今更)。
しかしヨメは部屋に帰るなり撃沈。そのままグッスリと寝てしまう。 新っ 婚っ 旅っ 行っ なっ のっ にっ !!
・・・結局おにぎりは翌日の朝食となった。
【11月24日(土)】
おにぎりでカンタンな朝食を終え、旅館をチェックアウト。そのまま駅に向かう。
途中、歩道脇になんともシュールな彫像を見つけ、嬉々として携帯で撮りまくる二人。
天下の往来でドコ晒しとんねんオイ
そんなモン撮ってる暇があったら二人で並んだ記念写真でも撮りやがれ。
(ちなみに二人の写真はまだ一枚も撮ってない。新婚旅行なのに)
駅の売店で「朝食後の軽い食事」(まだやっとるか)。
飛騨牛コロッケとフライドチキンを喰らう。
特急で高山を発ち、昼には富山に着く。
富山駅では、松さんが車で迎えに来てくれていた。
松さんが昼食に連れて行ってくれた先は、松さんちの職場から程近いところにあるラーメン「大喜」。彼のチョイスはやはりというか、味よりネタ色の強い店だった。
ここの黒ラーメン「富山ブラック」は、知る人ぞ知る富山名物。醤油がキツめな上に、更にヤケクソのよーにふりかけられた黒胡椒のためやたら濃厚。つか塩辛い。
起源は1955年頃、富山市中心部で富山大空襲の復興事業を行っていた食べ盛りな若者たちの昼食のおかずとして醤油を濃くして作られたものだそうである。
コールタールのよーな黒スープ
確かにこれは御飯の「おかず」として食うべきものであろう。松さん曰く、「毎日食ったら確実に体を壊すので無理だが、一ヶ月に一回くらい・・・仕事でやたら疲れた時などに無性に食べたくなる中毒性がある」らしい。
もともと濃い味好きの名古屋圏民であるTACと北海道民のヨメにとっては恐れていたほど凶悪な濃味でもなく、美味しく頂いた。
その後は、松さんとこ(本業は水道ガス配管工)が仕事したという博物館のプラネタリウムで昼寝したり(ヲイ)、閉店間際で生産ラインも止まってしまったカマボコ工場へ見学行ったりして観光。
松さんちでは、奥さんのにょこさんと息子のもきゅのぶ(9ヶ月)、そしてミニチュアダックスフンドのリンちゃんが迎えてくれた。
人懐こくてめっちゃカワエエ
松さんは、割と食にうるさいタイプの人である。
不味いものに厳しいと言うより、旨いものを褒めさせると「ミスター味っ子」の須原椎造級である。(古っ)
その彼が以前から「TACさんが富山に来た時は是非とも連れて行きたい」と言っていた寿司屋が存在する。当然”回らない”方の寿司屋である。
彼の口からさんざん惜しみない賛辞を聞かされていたその寿司屋へ、今回ついに夕食に連れて行ってもらった。
松さんの旧友で、彼とTACの出会いのキッカケとなった(よーするに百鬼夜号計画を松さんにメールでタレコミした人)のぶひこさん夫妻と合流し、GO!
大満足
一瞬入るのに躊躇いそうな高級っぽい佇まい。しかし、意外なほど値段はリーズナブル!(結局オゴってもらったのでよくわからんが)
店の方も気さくですっげー感じのいい店だった。味はもちろん絶品!ゴチになりました!
TAC
「何がイチバン旨かった?」
ヨメ
「んーとね。揚げ出し豆腐」
・・・ぅをぃ。
その後はみんなで松さん宅で飲み直し。
他愛の無い話題で談笑しながら、つくづく人の縁の不思議さを感じていた。
ネットで知り合った友人は多い。彼らもまた、百鬼夜号に興味を示してコンタクトをとって来た一読者に過ぎなかった。
しかし出会ってからのこの短い期間でお互い結婚し、それぞれの披露宴にも参加し、今では家族ぐるみで付き合うほどになっている。
岐阜と富山――普通に生きていたなら絶対出会うことは無かったであろう。
その夜は何故かリンちゃんと一緒に寝た。
松さんらがまるで当然のよーに飼い犬をTACらの部屋に預けて2階の寝室へ行ってしまったので、「え〜?いくらリンちゃんが人懐こいったって、初めてやって来た全くの他人である俺らと同じ部屋に寝るか〜?」と思ってたら、フツーに布団に潜り込んで来て、TACの股ぐらの間に落ち着いて寝てしまった。定位置はそこかよ。
可愛い。とても可愛いが、そこまで無防備でいいのかイヌとして。
【11月25日(日)】
富山二日目は朝から、もきゅのぶを松さんの実家に預けた後、松さん・にょこさん・TAC・ヨメの4人で富山ガラス工房へと赴く。実は知らなかったのだがガラス工芸は富山の地場産業の一つらしい。多分誰も知らん。
一周りギャラリーを鑑賞した後、松さんが予約を入れておいた近くの工房へ移動。今日はココで、蜻蛉玉製作の体験教室に参加するのだ。
工房スタッフのおばちゃんに基本的なやり方の手本を見せてもらう。
カンタンに言ってしまうと離型剤を塗った芯棒にバーナーで炙って溶かしたガラス棒を巻き付けていくわけだ。ガラス棒は様々な色があり、それらを何色も歯磨き粉のよーに重ねたり捻ったりしながら芯棒を回転させると幾何学的なマーブル模様になる。
手本を見てる分には簡単そうに見える。
誰一人として経験者がいないドシロート4人でいざトライ。
まあこの4人の中では俺がイチバン器用そうだし、いっちょスゴイやつを作ってやっか!
・・・TACさん、まず真ん丸にすることが既に出来ません。
熱で柔らかい状態のガラス玉は、大きくなるごとに自重で下に垂れそうになってくる。それを球状に保つために常に芯棒を回転させるわけだがどうも上手くいかん。(多分、炙り過ぎ)
諦めて涙型の蜻蛉玉にする。
とりあえず全員が3個ほど作った時点で一区切り。
冷却と仕上げをスタッフに任せ、完成までの空いた時間に松さんオススメの塩天丼を喰らいに行く。これがまた無茶苦茶旨かった。
工房に帰ってきたら、蜻蛉玉はちゃんと出来上がってました。
球状のものが一つも無いTACの作品
ヨメは小振りながら見事な真円の玉を完成させ、かんざしに仕立ててもらっていた。
・・・しかしこの蜻蛉玉製作・・・慣れたらかなり面白いだろうなぁ。
その後は海王丸パークへ。
帆船「海王丸」の雄姿
海王丸は、商船学校で海の男たちを育てるために造られた4本マストバーク型帆船。練習船としてばかりでなく、戦後の海外在留邦人輸送など様々なミッションに携わり、平成元年の現役引退までに航行した距離は実に106万海里(地球約50周)。世界中の人々に「海の貴婦人」と呼ばれ親しまれてきた。
――さすが「海王」の名を継ぐに相応し・・・ってアレ?・・・貴婦人??
一般公開中。中にも入れるでよ
碇もプロペラもさすがにデカい。
なかなか見応え十分だが、おそらくこの日ココに訪れた全ての人が海王丸の内部に一歩足を踏み入れたと同時に例外なく同じ感想を抱いたであろう。
「・・・臭っっ!!」
――海王丸、内装改修工事中。
船内は強烈な有機溶剤のかほりに包まれ、見学中何度も軽くトリップしかけた。
順路の途中で甲板に出ると、全員思わず深呼吸。地球ってこんなに空気が美味しかったのね☆な気分になる。
下船後は「薬膳ソフト」なるさすがクスリの町トヤマなデザートを喰らって帰路に着いた。
その晩の夕食は豪勢だった。
まず富山といったらコレ、鱒寿司。
数ある専門店の中から松さんがわざわざ足を運んで買って来た厳選の一品。
そして松さんのお父上が手配してくれたという上等の寒鰤。この日は特に水揚げが少なかったらしく、本当にありがたい限りである。
十分に脂の乗ったこの厚身のブリを、たっぷりの大根おろしとともに食う刺身は格別。ぶりしゃぶも初体験だった。
温かい汁物は、松さん特製のアラ汁である。もう、どれもこれもウマ過ぎる。
]
隣でヨメがうっとーしー程にはしゃいでいた。それくらい富山の旬を腹いっぱい堪能できた。
ゴチになりました!
【11月26日(月)】
さて、最終日。
松さんは仕事なので、朝早くに出勤。TACらはダラダラと遅くまで惰眠を貪らせていただく。
起きてからリンちゃんやもきゅのぶと戯れてるうちに、あっという間に昼になった。
昼休みに戻ってきた松さんに、車で富山駅まで送ってもらう。
「お世話になりました!」
固く握手を交わして彼と別れた後は、駅ビルの中で土産物などを物色。昼飯には富山の食い納めとして名物「白海老ラーメン」を食らう。
その後は、両手いっぱいの土産と思い出とともに――二人は電車に乗るのだった。
帰りの電車の中。
松さんからメールが届く。
「太陽がイイ感じに立山連峰を照らし出してますぜ☆」
もちろん、もう立山連峰は見えなかったが――
目を閉じれば、すぐにそれは目の前に浮かんだ。
昨日、塩天丼を食べに行く途中で遠くの空に見た雄大な山々の姿と、
我らの新婚旅行を素晴らしいものにしてくれた・・・かけがえのない友人とその家族の温かい笑顔を。
――2007年11月。今日も富山は抜けるような青空。
そして・・・、もうすぐ厳しい冬を迎えようとしている。
糸冬
松さん・にょこさん・もきゅのぶ・リンちゃん・のぶひこさん・さきよんさん、本当にお世話になりました。
思い出をありがとう。最高の新婚旅行になりました!